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病気やハンデを持ちながらも最期まで優しく社会のために貢献してきた父

その大きな手からバトンを引き継いだあの日を忘れない。いつまでも・・・・・この胸に。

 

 

 

★プロフィール

・病気とのお付き合い:本当は、ずいぶん前だったのかもしれませんが、診断されたのは平成23年11月初めての気胸手術のあと、再発して。

・年齢 : アラフォーと言いたいのですが、この夏アラヤダー!になってしまいました・・・

・住所 : 山梨県

・家族 : 夫と2人の子ども

・職業 : 健康に関する資格商売

・趣味 : ガーデニング 食べ歩き  ウインドウショッピング  こっそり会議中に上司の似顔絵を書くこと

・やってみたいこと:海外旅行(ハワイに行きたいな)  子どもと庭でバドミントン   ヨガ

・性格 : すごい寂しがりやで人見知りが激しいので、入院中は同室の患者さん(とらやさん)と仲良くなれてよかった

 

2014年2月16日(日)
山梨がんフォーラム 病気体験者の語り

語る人: りんだ 甲府市出身
病 名: 稀少部位子宮内膜症(月経随伴性気胸)

1私の生い立ちからこの病気の発覚まで

山梨県甲府市で生まれ育った勝ち気なおてんば娘でした。父親は、ポリオによる両下肢麻痺というハンデを持ちながらも障がい児教育や障がい者活動の先駆者でした。自宅で障がいをもった子どもたちを集め、理学療法士として治療をしながら勉強を教える学園を作り、それが今の県あけぼの医療センターとなりました。私は、そんな父を心から誇りに思っていました。だから、いろんな人がいて当たり前、自然に助け合うが当たり前の世界で育ってきました。
中学1年の授業参観に初めて父が松葉杖で晴れ晴れしい顔で来てくれました。うれしかった。でも、同級生は皆眉をひそめて「あれ、誰?」と冷ややかに笑っていました。「私のお父さんだよ。なんか文句ある?」杖をついて階段を何段もでこぼこ坂道を上ったことがありますか?そうやって、父は私を見に来てくれたんです。
やがて父は、難病(パーキンソン病・類天疱瘡)になりました。もうこれ以上病気を背負わなくていいのに、家族の分も一人で困難に向かっていきました。そして、20年以上にわたる母の献身的介護、父の代弁をして地域医療の崩壊や金儲け主義の医療や社会と闘う兄、教育の現場で特別支援教育の充実のために闘う弟もいました。兄弟は皆、父と母の後ろ姿を見て育ち、同じように今も闘っています。
父の全国医療功労賞の受賞。医療に貢献してきた父が、医療に見放されるそんな予想もしなかった時が来ました。家族みんなで守ってきた父の命。生きていてくれるだけでよかった。しかし、症状はだんだん悪化。2時間以上かかる食事の世話と毎晩何回もの体位交換、コミュニケーションもだんだんとれなくなってきました。ケアマネさんやヘルパーさん、訪問看護師さん、多くのスタッフに支えられてきたけれど、度重なる不慮の事故や介護疲れで母が体調を崩しはじめました。
「完全看護」その言葉を信用して預けた父の命。しかし、退院予定日に迎えに行った家族が見たのは、一人病室で声も出せず、ナースコールも押せず痛みに苦しむ父の最期の闘いの姿だったのです。なぜ、父は死ななければいけなかったのか。あの時もっと私がああしていればこうしていれば・・・と自分を責める家族たち。そんな悔しさと喪失感の中でした。以前から不調を感じていた私自身の病気が発覚しました。

2 病気の経過と大きな出来事

~平成16年
・ 二人目不妊。気づかないうちに病気があった。月経の異常に自分では気づいていなかった。上胸部の痛みと息苦しさ、過呼吸などがこのくらいの時からたまにあった。狭心症か心筋梗塞のような息も出来なくなるほどの強い痛みだったが、10分くらいでおさまった。症状のあるときに内科を何度か受診した。心電図をとりいつも異常なし、疲れかストレスかなといわれていた。だんだん咳込むことが多くなってきて、春先には一瞬呼吸困難になるので、水分はいつも携帯し、胸にシップを貼ってしのいでいた。

平成17年   二男誕生。3年間育児休業取得する。症状もなく幸せな毎日。
平成20年   育児休業から復帰。仕事上のストレスから不眠になってしまう。
平成22年
母の脱腸入院・手術。毎日、父の介護の手伝いに行く。この頃から突然息苦しくなる、立ってレジを待っていられない、不安でドキドキして落ち着かなくなる、また買い物に行くと苦しくなると思うと怖くて行かれない、胸痛、不眠などだんだんひどくなる症状・・・職場で書類の整理ができない、数が数えられない、約束を忘れる、ミスを繰り返す、考えていてもぼーっとする、ざわざわして落ち着かない。7月、D心療内科医院で「パニック症」と診断され、内服治療開始。頓服薬をいつも持ち歩いていた。頓服薬を飲むと眠くなり落ち着くことから、今回の胸痛もそうかと思っていた。(2度目の術後からパニック発作は起きていない。)

平成23年
1月、母が突然の下血。介護疲れから胃潰瘍で入院。父の介護の手伝いへ。
4月、職場の異動があり、大きな環境の変化に不安は大きい。無理せずにやっていかなくては体がもたないかも・・・と思いながら、慣れない仕事を薬を飲みながら必死でこなす毎日。この頃、職場でよく何度か過呼吸による体の硬直としびれのため動けなくなり、タクシーでそのまま受診するようになる。そんな時、父が熱発入院。嚥下性肺炎の疑い。食べたそうな父、しかし、神経内科医等のかかりつけ医師の相次ぐ異動と診療科の閉鎖。行くあてのない難病患者の父。F病院より絶食ならばという条件で入院。8月、父の再発熱、抗生剤大量に投与。栄養剤入れると再発熱を繰り返す。
10月、42.7度の発熱が一週間続く。抗生剤の大量投与後、退院に向けて経管栄養開始する。「教科書どおりやった」と後で主治医から聞く。10月末、病院帰りの母が、交通事故に遭う。救急搬送される。父には黙っておく。

11月30日 父の突然の死(退院予定日の回診時間中だった。言葉が出せない、ナースコールが押せない父の異変に気づいたのは、迎えに行った家族だった。)診断名:絞扼性イレウスによる突然死
12月、父の葬儀時に母が転倒する。

平成24年
1月、母が足の骨折をしていたこと発覚。緊急手術と3ヶ月の入院となる。この間も息苦しさと胸痛があり頓服薬が増えていく。8月、人間ドックで右肺上葉に軽度の気胸が見られ、すぐに受診をと連絡ある。翌日、A病院受診。レントゲン結果から「生理の直後だったら、軽度だから問題ないから、あなたみたいな人は、ほっとけば治る。」と言われる。翌日 B病院呼吸器内科受診。「軽度なのでこのままで様子みてよい」と帰宅。その夜、また医師より電話。もう一度、検査をしたいので予約をとったと。3日後、再度レントゲン検査で気胸よくなっている。9月上旬、CT検査結果で右下葉に2,5センチ大のブラがあり、外科へ紹介される。9月21日、胸痛あり。ボルタレン内服する。9月25日、胸痛強く息苦しい。仕事を早退して受診する。気胸あり。10月 4日、B病院呼吸器外科で検査結果説明と手術について説明を受ける。10月15日  胸痛ありボルタレン内服する。10月17日、胸痛強く早退するが、運転つらく近所のC医院受診。気胸あり。11月 1日、B病院予約受診。医師に生理との関係聞かれたが、いつも重なっていたわけではないことを伝え、わからないという。いつ発作が起きるかわからない不安から解放されるならばと手術を希望する。再発することがあることは、この時にきいていた。でも、今までのようになることはないといっていた。

11月20日 胸腔鏡下右肺部分切除術 その後 一晩ICU管理

3日目、ドレーンクランプ中に生理になる。エアリークで気泡が明らかに発生していたが、そのことについて説明は無くドレーン再開。私も痛みのため経過や手術のことなど特に説明も求めずにいた。今考えると、気胸の術後初めての再発だった。ある夜、主治医が一人で病室に来て「あなたは、横隔膜に穴が開いていたから、そういう人は再発しやすいからね。」とつぶやいていった。言っている意味がよくわからなかった。

11月30日、退院の許可が出た。昨年、入院していた父の退院予定日そして命日。父が願って出来なかった生きて家に帰る日のはずだったから、「父の代りに生きて家に帰る」と言い張り、すぐに実家に迎えに来てもらうが、連れて行かれたのは、お墓だった。
12月10日、B病院退院後の初受診で、気胸が再発していた。12月11日、B病院受診。再度レントゲン。自分でも呼吸音聞こえない。
12月15日  義父の死(胃がん)

平成25年
1月8日、B病院受診。レントゲン上の再発はないが、痛みはあることを話し仕事復帰へ不安あること話すが、「高校生はとっくに学校に行ってるよ。もう治らないんだから病気と一緒に生きていくつもりでね。」
2月6日、胸痛あり。D医院受診。気胸の再発あり。安静に過ごす。
2月27日、胸痛あり。D医院受診。気胸の再発あり。安静に過ごす。
3月14日、胸痛あり。C医院受診。レントゲン異常なし。でも痛い。医師から、精神的なものだろうと言われ、やはりパニック症状なのかと区別がつかないと思って頓服薬を飲んだ。
4月24日、仕事中、胸痛と息苦しさあり、動けなくなった。すぐに手術した総合B病院に運ばれた。気胸の再発あり。外来担当医師から、経過観察入院一泊二日の指示。生理1日目だった。主治医はいなかった。
5月2日、B病院受診。肺は前より膨らんでいたが、十分膨らみきれていない。ホルモン療法と婦人科の受診をすすめられた。
5月7日、B病院受診。検査結果の説明。レントゲンでは気胸はなし。主治医より「軽度の気胸だから、このくらいなら普通の生活をしていいよ。あなたみたいに怖がらなくて大丈夫だよ。気のせいだよ。」と。
6月12日、仕事中、胸痛と息苦しさあり早退して、D医院受診。気胸再発。その後2日間生理休暇で安静にする。自宅で安静にしているが、ずっと息苦しさあり。水平に寝ていられない。だんだんひどくなる感じがした。背中も左の腕も痛い。でも「気のせい」とB病院で言われたことを思い出し、つらかった。
6月14日、B病院婦人科受診。「あなたには、もうこれしかない。」とホルモン注射をすすめられた。待合室で泣いていたら、看護師さんが、励ましてくれた。勇気を出して「今よりよくなるならばがんばろう。」とリュープリン1回目を注射した。
6月17日、出勤するが午前中に急に息苦しくなり、B病院に夫につれってもらう。主治医でない外来担当の医師より気胸が以前よりも悪化してるといわれ、そのまま入院するようにいわれる。2泊3日入院。退院後も2週間の自宅安静をするよういわれる。なぜか、入院中に主治医が来ないため避けられていると感じる。退院後も胸痛と少し動くと息苦しくなることが多くほとんど寝て過ごす。頭痛、動悸、食欲減退、不眠、手のしびれなど継続して症状あり。
6月27日、B病院受診。気胸なし。しかし、胸痛、しびれ等の症状は持続あり相談する。「精神的なもの。外科的にはもうすることは無いので終了。もう来なくてよい。」「あなたは自力で治す人だから入院の必要はなかった。仕事も行ってよい。気胸で休養の診断書なんて書けないよ。」でも、体中痛くて動けないよ。
7月2日、B病院婦人科受診。注射後の経過報告。予約時間から5時間待ち。
7月3日、仕事復帰。7月6日、生理始まる。買い物途中で胸痛発現。怖くて急いで帰る。
7月7日、歩くと胸にひびくため寝てる。腹痛も強い。出血も多い。注射の副作用であろうと説明があった。
7月8日、生理休暇2日間。運転できないほどの胸痛。タクシーでD医院受診。気胸再発あり。
7月12日、婦人科受診。リュープリン2回目注射。インターネットで探した東京の玉川病院に行こうと決心し、婦人科に紹介状書いてもらう。B病院地域連携室に予約を依頼する。
7月19日、手術したB病院外科にセカンドオピニオンのため画像データ等について依頼する。
7月23日、全身倦怠感が強く、体は動けないが涙だけが出てくる。
7月24日、倦怠感続く。夕方胸痛も加わり、横になっている。息を吸うだけで何も出来ない。家族の悲しみと負担。小さいわが子の涙と寝言で「ママ、死なないで。」ごめんね。心配かけて。ちっぽけな私、このまま生きてていいの?誰にもぶつけられない怒りと悲しみを誰か吸い取って。この子たちを守りたい。病気の私にもできることがあるはず。
7月29日、東京の病院に電車で行く。着いたとたん処置室に運ばれて休養。最後に栗原先生に見てもらう。自分でまとめた経過記録を見てもらい、「こんなに再発していたのかい。大変だったね。僕が手術するからね。」といってもらい、涙があふれてくる。看護師さんたちにも「最後の砦にやっとたどり着いたんだね。がんばったね。」といってもらう。天国に来たかと思った。病院の玄関の外に出て再手術の報告。うれしくて涙で声にならなかった。
8月中、ホルモン注射の副作用で、全身倦怠感が強く起き上がれない日が続く。歩く速さが遅くなってしまう。不眠、早朝覚醒してしまう。食欲の減退と飲み込む時に肺が痛い。
8月1日、東京の病院の指示でホルモン注射は中止。B病院に東京の病院で再手術をしてくれることになったことを外科医師に報告し、今までの思いを医師に伝えた。つらさをわかってもらえなかったことがつらかった。気のせいではなかった。私は、医学書どおりでも高校生でもないこと。心配してくれてわざとそう声を掛けてくれたのですか?と冷静にたずねた。主治医は、黙って私の話を聞き、「この病気はめったにないから。」といったことをずっと家族に話し、私とは目を合わせなかった。でも、そこに医師と患者の関係でなく一人の生身の人間らしい姿を見て自分は納得できた。
8月20日~手術のための検査入院2泊3日。局所麻酔での胸腔鏡検査などの検査をひととおり行う。そして確定診断がおりる。9月20日、D医院受診。気胸あり。安静指示。

10月9日  胸腔鏡下横隔膜、肺部分切除とカバーリング術

この入院中に同じ病気の方3人に会った。初めて同じ病気の人に会えていろんな話をしてうれしくなった。ドクターも看護師さんもみんな親切で人間味あふれる病院だと思った。10月14日、退院。同室だった人と同じ病気の仲間の会を作ろうと意気投合した。
10月20日、抜糸時に栗原先生に患者会のことを相談すると全面バックアップしますと言ってくれる。
10月26日、早速ホームページのアップをする。
11月、 仕事復帰する。胸痛、しびれ等の症状は、持続していた。休養を取りながら、できる仕事をやるようにしていく。しかし、自分の意思とは別に、遅刻、突然の早退、欠勤が続く。でも、私を必要としてくれる人がいる喜びがあった。この仕事が好きだった。職場の理解と応援があった。
12月、ホームページの輪が広がっていく。2月の学習会の計画。同じ病気の仲間が増え、お互いに癒される関係に勇気付けられる。苦しいのは私だけではなかった。掲示板で気持ちを受け止めてもらい、情報交換をしながら前向きに病気と付き合っていこうと思えた。

3 これから・・・

危機管理。今の社会は自分の守備範囲(テリトリー)を守ることを真っ先に考える。訴えられたら困る。失敗しても責任取れない。だから、だれも自分の安全と思える世界から出ない。見て見ぬ振りをして手を出さない。その社会の仕組みの中で、重なるのりしろがだんだん少なくなるから、手が伸ばせないから、手がしっかり結べないから、隙間から落ちていく人、迷う人、助けられない人たちがたくさんいる。
人を救うには、人が手を組むこと(多分野とのスクラム・連携)とコーディネート役が必要と思う。役職名、肩書きだけでなく「意志を持った人」。「その時に自分が出来ることが自分の仕事だと思える人」が、相手と同じ土俵に上って一緒に考えることができたならば、たとえ失敗しても、責めたりすることはなく分かり合えるはずではないだろうか。
そして、当事者意識で道案内、納得するまで寄り添ってくれる誰かにいてほしい(ピアサポート)。私は、家族や職場のみんな、友達などたくさんの人に恵まれた。そのおかげでここまで来ることができた。人は助け合いながら生きていく、生かされていく。人は人に癒されていく。病気になってあらためて、その周囲のありがたさに気づき、感謝し、一日一日を悔いなく一生懸命生きていこうと思うことができた。

社会はすぐ「自己責任」というが、病人や障がい者にとっては、苦しんで、悩んで、何度も崖ぷちに立たされて、突き落とされて、這い上がり、それを引き受けて自分の人生を自分らしく一生懸命生きようとしていることだけで、十分自己責任を果たしているはずと思う。それなのに、今の社会はこれ以上に社会的不利益を与えるというのか?すでに自己責任の範疇を超えているのではないのか?

病気があるから仕事が出来ない、与えられない、やめてもらう、新たな就労につけない、という今の社会は本当の自己責任という意味をわかっているのか?それは、差別であり偏見であり、見て見ぬふりもいじめと同じじゃないか?みんなが、自分だけを安全な場所に置き、傷つきたくない、守りたいと思っている。それは、当たり前。何かミスがあればすぐに責められる、訴えられるそういう世の中になっている。面白おかしくそれを取り上げている。本当のことを知らないで。影で自分の身の危険をかえりみず、「今、自分がやらなければ。」立ち向かった人も理解されずに責任を負わされ傷ついていく。こんな自分のことだけで精一杯な世知辛い世の中だから、どんどん人が傷ついていく。

誰も自分でなりたくて病気や障がいを持ったわけではないだろう。次に誰がなるかわからないだろう。だから、お互い様なのに。助け助けられて当たり前、そんな世の中をもう一度目指せないだろうか。変えたい。この世の中を。変えようと思う人が、変えていく。できることからやっていく。そう、この大好きな山梨から。

ぱぱ、見ていてね。何年かかっても、仲間がいる。そしてあとを継いでくれる人たちがきっといるはず。前に向かって進んでいく。倒れても倒れても、立ち上がる。パパが、そうだったように、今、私は負けない。これが父からもらった私の命のバトン。引き継いでやるべきことがあるから、今の私がいる。私にしか出来ないことが必ずある。だから、自分に誇りを持って生きていく。